競争する(頑張る)ことは必要か。

人はなぜ努力し頑張るのだろうか。

 

お金のため、家族のため、夢をかなえるため、本当の自分を知りたいため、達成感を味わいたいなど色々な理由で努力する。

 

自分の定めた目標が大きければ大きいほど達成された時の喜びや充実感は大きい。

 

しかし、頑張ることはそれだけ競争が激化し、巡り巡って自分の人生やほかの人の人生を不幸にさせるということも念頭に置かなければならない。

 

なぜなら、人が叶えたいものは有限だからである。

 

例えばスポーツの大会で世界1位を取りたいと思ったら、それを叶えられる人は世界でたったの1人だけである。

 

目標が大きければ大きいほどその目標を達成できる人数は少なくなっていく。

 

その目標に向かっている誰もが自分の目的を達成させるため一生懸命に努力する。

 

時には目的を達成させるためなら手段を選ばない卑怯な人間も出てくるだろう。

 

皆、お金で動いている今の社会では競争という概念から逃れられない仕組みになっているからだ。

 

人間には個体差があり、人それぞれに持っている能力や才能、運に違いがある。

 

1人が努力して上に立てば別の誰かがさらに努力して上に立つ。

 

こうして、みんなが努力して頑張れば頑張るほど、才能や運のない人間は淘汰され、最終的には才能や運のある人間だけがその世界に残る。

 

まさに今は弱肉強食の社会、ほかの生き物と何ら変わりのない、強いものだけが我が物顔で闊歩する仕組みを取り入れた社会なのである。

 

それでも人は努力することは必要だという。

 

しかし、人間は努力すればするほど、頑張れば頑張るほどより多くのエネルギーを消費する。

 

生き物にとって消費するエネルギーが大きいことは危機的状況であり、頑張ることや努力することは苦痛に感じ、出来るだけ努力や頑張ることは避けたいと考えるのである。

 

つまり人間は本来努力や頑張ることはしたくないのだ。

 

しかし、この社会が競争という仕組みを取り入れた社会であるため、生き物として努力や頑張ることをしたくなくても必然的に努力せざるを得なくなるのだ。

 

夢を叶えるためや目的を達成させるために1人が努力すれば別の誰かがさらに努力し、みんなが努力すればするほど合格ラインがどんどん上がり、一人ひとりが受ける苦痛が増えるのだ。

 

最終的にどんなに苦痛を受け努力をしても才能と運を持ち合わせた強者の一人勝ちということになる。

 

弱者はどんなに努力しても、日の目を見ずに諦めて去るしかないのだ。

 

これらはある種、敗者の戯言のように聞こえるかもしれないが、人が競争し、勝負するということはどうしても才能と運という要素を無視することはできない。

 

こうなると、良い思いをするのは才能と運を持ち合わせた強者だけであり、そのほか大半の弱者は目的を達成させるために苦痛を受け続ける、まさに修行僧のような生活を強いられるのである。

 

こうして努力するだけ努力して目的を達成できずにいると精神的にも疲弊し病気になったりする。

 

これが世の中で生きづらさを感じる要因の一つになっていると僕は考える。

 

頑張っている人や努力している人を見るとついつい応援したくなったり、自分も努力したいと考える。

 

仕舞には頑張ることは素晴らしいことだと錯覚するようになる。

 

確かに努力することは生活の質を高め、精神的な成長を得られるきっかけになったりする。

 

しかし、今の競争しなければ生きていけない社会では頑張りたくない人や努力したくない人を巻き込み、強制的に負けが分っている八百長ゲームに参加させられるのである。

 

我々が生きやすく生きるために努力し頑張ることが多くの人を苦しめる結果になっているということだ。

 

さらに、競争する社会は助け合う心を失わせる。

 

なぜなら、競争する社会は勝負することが常態化し、勝負の世界では人のことを思いやったり、人を助けることは負けであり、生きること、つまり勝つために常に自分にとって都合のいい有利な立ち位置に身を置く必要があるからだ。

 

そのため、競争社会は他人を思いやらない自己中心的な人間を作りやすい環境であるといえる。

 

こうして、競争が激化した社会では他人に思いやりのない、冷酷な人間やずる賢い人間が人の上に立って支配する社会になるのである。

 

多くの人が自分が生きるために他人を騙しあい、他人を信じられずに人間不信になるのである。

 

この助け合いの心を失わせることも生きにくい社会を感じさせる要因の一つである。

また、競争する社会は子供を育てる負担を増やし、少子化を招く要因にもなる。

なぜなら、子供をより優秀な人間に育てるためにはより多くのお金が必要になるからだ。

 

お金のない貧困国では子供をたくさん産んで自分たち家族のために働いてもらいたいと考えるため、子供をたくさん作ったほうが自分にとっても家族にとっても有利なので食費や生活費が底をついていても子供をたくさん作る。

 

しかし、先進国などの競争社会を強いられている社会では一人ひとりの子供が優秀である必要があるため、子供をたくさん作るよりは一人の子供にたくさんお金をかけて育てたほうが負担が少なく優秀な人間に育てやすいという考えになる。

 

競争社会では子育てさえも競争であり、息の詰まる社会なのだ。

 

もちろん、子育ての競争を捨てて貧困国のような考え方で子供にお金を掛けなくてもいいと考え、子供をたくさん作る親もいるだろう。

 

しかし、この考えは貧困国では通用しても、日本のような競争社会において子供にお金をかけないで育てるという行為は残念ながら育児放棄をしているのとあまり変わらないのである。

 

なぜなら、子供にかけるお金の多さが子供の学力に影響し、その後の就職先の幅や就職のしやすさに影響を与えるからだ。

 

つまりお金をかけた子供ほど将来的に苦労せずに幸せに暮らせる可能性が高くなるのだ。

 

貧乏で子供をたくさん持った家庭で生まれた子供は大家族に揉まれて、大人に成長してもいかにもたくましく生きていけそうな感じはするが、そういうたくましさは残念ながら幸せにはつながらない。

 

なぜなら、そういう環境で育った子供はストレス耐性が強くなりやすいと考えられるが、ストレス耐性が強くなることは逆を言えばどんな過酷な環境や職場でも耐えられるということになる。

 

よく、何も知らない外国人労働者が過酷な環境のブラック企業などで働かされている。

つまり、ブラック企業などにとってはそういう貧困国で育ったストレス耐性の高い人材は良いカモなのだ。

 

子供の生まれた環境が大人になっても生涯続く傾向があるため、日本に生まれるべくして外国人労働者と扱いがあまり変わらない運命をたどる。

 

今の社会では辛く、過酷な環境で育った人間はまた大人になっても過酷な環境に置かれてしまうというアリジゴクのような仕組みなのだ。

 

切ない話だが、我慢強さや頑張ったり努力することは幸せにならないのだ。

 

才能や運を持ち合わせていない限り、将来的に待っているのは幸せというより、苦悩や苦痛という回避できたかもしれない苦しみに子供は悩まされるのである。

 

つまり、貧乏で子供をたくさん作ることは少子化の進行に歯止めをかけることはできるが、子供の将来の幸せを考えない、無責任な行為ということになる。

 

人の幸せはその人の気持ち次第という考え方もあるだろうが、それはどんなに過酷な環境に置かれようとも本人の気持ち次第で解決できるものなのだろうか。

 

競争(頑張ること)が激しい国では苦痛や苦しみが増え、必然的に自殺率も増える。

 

競争社会は生活の質を良くするだけで人々の心を豊かにするわけではないのである。

 

たとえそうだとしても、競争社会は良い社会だと胸を張って言えるだろうか。

 

では単純に競争しない社会にすればいいのかというとそう簡単でもないのである。

 

なぜなら、競争するしないに関わらず才能や運のある人間と才能や運のない人間をどうすれば共存できるのかという問題があるからだ。

 

出来る人間と出来ない人間は同じ環境に置かれると中々折り合いがつかないことが多い。

 

根本的な部分で人間自体に能力差がある限り、みんなが全く同じ環境で育ち暮らしたとしても、すでに不平等さが生まれているのである。

 

人間を改造して能力差も平等にできれば問題ないのだが、今の技術力ではどうにもできない。

 

そのため、出来るだけ能力差のない環境を作る必要があるのだが、今の社会では能力を判断する基準も能力差に応じて細かく分けることも難しい。

 

もっとも簡単な解決方法はAIやロボット、機械などを駆使して人間が働くことがない社会を作ってしまえばすべての問題を解決できる。

 

本当に幸せな社会を実現するにはそれしかないのだが、今の現状で競争する社会と競争しない社会のどちらを取るのかと言ったら、やはり競争しない社会のほうがより多くの人にとって幸せがあると僕は考える。

 

競争する(頑張る)社会はどうしても精神的、肉体的苦痛が増え、より多くの人が幸せを感じにくい社会になってしまうからだ。

 

今、僕は純粋に競争する社会はもう古いと思っている。

 

競争しない社会はそれぞれの会社が協力してお互いが持っている優れた情報を出し合い難題を解決できる可能性もあり、生産性の向上につながる可能性があるからだ。

 

今の社会で重要なのは競争することよりも協力し合うこと。

 

それこそが今の社会で必要とされている能力なのではないだろうか。

 

 

働くことは幸せなのか。

何故、人は生まれた時から働く運命にあるのだろうか。

すべての人が働きたいと思える社会であればいいのだが、働きたくないと思う人もいる。

現に僕も働きたくないと思う人間の一人である。

働きたくないと思っても働かないという選択肢はどうにも取りずらい。

皆、働いてお金を稼がなければ生きていけない仕組みになっているからだ。

『働かないことは悪である』

これがこの社会で生きていくうえで刷り込まれていく世の定説である。

時にこの定説は悪さをする。それは生活保護受給者の存在である。

生活保護は健常者や障害者問わず、条件を満たしていれば誰でも簡単に受けることができるが、その財源は税金である。

税金は労働者から徴収されるお金である。

つまり、生活保護受給者は労働者によって支えられているのだ。

これにより、もし僕が何もなしに生活保護を受給して、働かないという目的を達成しても、必死に働いている人たちからは「働けるのになぜ働かない」とバッシングされることになる。

このバッシングがなぜ起こるのかというと、働きたくないのに働かざるを得ない人たちがいるからである。

『こっちは汗水流して苦労して生活しているのになぜあいつは何もしないで暮らせるんだ』

この考えは生活保護受給者だけにとどまらず、社会で働いている人にも影響してくる。

職場で働かなかったり働いてもあまりにも効率の悪い人に吐き捨てられる言葉である。

そういう考えが浮かぶのは自分と比べて楽をしているように見えると苛立たしく感じるからだ。

こういう考えは根本的に働きたくないと考えている人たちから生まれるものと僕は考える。

またこの考えから派生して、働いている人は働いていない人よりも偉いと考える人もいる。

働いていない人が生きていけるのは働いている人がいるお陰であるという考えだ。

この考えにより自分が働きたくないのに働かなければならないストレスを自分よりも弱い立場の人たちにぶつける人もいる。

しかし、働いている人間が偉いという考えかたは正直もう古い。

本当に生きるために必要な仕事というのはこの社会にどれくらいあるだろうか。

この社会で生きるために本当に必要な仕事というのは本当に限られており、大半を占める仕事は人間の欲望や贅沢の肥やしでしかない。

究極的なことを言ってしまえば、人間は水と食料さえ生産、流通していれば生きていけるのである。 もしそれ以外の人間が働かなくてよくなれば時間は存分にある。

だから、自分に足りないと思うものは自分で作ればいいのである。

また、働くことは人を成長させるのに必要であると考える人もいるだろうが、必要か必要でないかは本人が決めることであり、別に誰かが決めることではない。

しかも、成長というのなら自分の力で色々作れたほうがよっぽど人間として成長していると僕は思う。

今の仕事は細分化されすぎており、いくら偉そうにしていてもその仕事だけで生きていくことは困難である。

僕は働くことで忍耐力や精神力はついた気がするが、人間的に成長できたかわからないし、ストレスが増えたのは間違いない。

それでも働くことは本当に人間にとって幸せなのだろうか。

『働かざる者食うべからず』

という言葉があるように働かない人間は生きてはいけない。

しかしそれは、食糧があまり確保できていなかった大昔の話。

今は農業や水産業、養殖技術なども確立していて安定して食糧を確保できる。

何もほかの生き物と同じように弱肉強食の社会にしなくても、別に働きたくない人は働かなくていい社会はもういつでも作れるのだ。

すべての国民が働かなくてはいけない時代はもうとっくに終わっていると言える。

それなのになぜ、多くの人々はわざわざ働きたくない人や働くのが苦手な人、延いては国民全員を働かせるように仕向けたりするのだろうか。

それはお金と権力を得た社会の強者が今ある便利な生活の構築、維持、向上をさせるため、弱者を洗脳し使うからである。

お金や権力のない弱者は強者によって働く働かない問わず強制的に何れかの強者に仕えることになる。

結局のところこの社会で生きる上で一番都合がいいのはお金や権力のある政治家や会社経営者といった強者なのである。

この社会はそういった強者が生きやすいように作られた社会といっても過言ではない。

何故ならこの社会はその強者が考え、弱者を使い作り上げているからである。

弱者は強者の奴隷になることを求められ、長時間労働し続けても生活が豊かになることは決して訪れない。豊かになるのは強者だけなのだ。

そして強者はこの弱者の生産性を向上させるために学校という場所を作った。

学校では成績によってA級品やB級品のように強者と弱者の選別が行われる。

たいていの場合、学校でトップクラスの成績を収める人間は強者になり、そうでない人間は弱者になる。

知能が高い人間は今まで分からなかった法則や原理、欠陥などを見つけやすく、人の上に立って支配するのが容易いからだ。

また、学業以外でもトップクラスの運と才能を持ち合わせている人間も強者となれる。

つまり、知性や運、才能を持ち合わせていれば、この世界の成功者であり、この世界はもう我が物といっても過言ではない。

残酷ではあるがこの知性や運、才能というのは努力でどうにかなるものではなく、人生のハンディーキャップとして一生背負うことになる。

人間は大人になる前から強者か弱者のどちらになるか大概決まってしまうということだ。

もし、弱者が強者の真似事をし、強者のようになれたとしても、それは一時的なものにすぎない。

なぜなら、弱者は強者の力を借りなければその力を手に入れることができないからである。

こうして弱者となった真面目な人間は使えない人間は切られるという恐怖から何とかして仕事で成果を上げようと努力する。

妻や子供といった守るべき存在がある人間は強者にとって絶好の存在であり、何をしても裏切ることがないため、強者の犬となりやすい。

子供や家庭を持つことだけでも大変であるにもかかわらず、守るべき存在という鎖でつながれた弱者は強者にとっていい奴隷なのだ。

さらに、僕みたいな働きたくない人間や厳しい社会に疲れてしまった人間はうつ病だと病人扱いされる。

そして、精神病院という名の食虫植物がうつ病を治す薬という甘い蜜に誘われた弱った人たちを捕食し、じわりじわりと弱った人の心を溶かしていく。

これが現代にはびこる高等な奴隷社会なのである。

 

強者は日々、次々と革新的アイディアを思いつき、新しい企業を作る。

新しい企業がたくさん出来ることは一見いいことのように思える。

仕事が多様化すれば、より自分に合った仕事先を見つけられる可能性があるからだ。

しかし、企業が増え続けることはいいことばかりではなく、かなり問題がある。

それは人材資源が有限であるということだ。

限りある人材資源をたくさんの企業が奪い合ったらどうなるか。

今、人手不足で困っている企業が多く存在する。

その原因は少子高齢化もあるが、増え続ける多くの企業が人材資源を奪い合っていることが人手不足に拍車をかけているように思える。

新設した企業は人材を確保できず予定よりも少ない人材資源で経営することになる。

新設したばかりでは少ない人材で何とか経営できていたとしよう。

しかし、企業は経営を続ければ続けるほど顧客とのトラブルが発生し、それに対応するためサービス向上を余儀なくされる。

かける手間が同じでサービスが向上すればいいのだが、残念ながらなかなかそうもいかない。

企業はサービス向上のため、人材を確保したいが、人材資源は有限であるため結局なかなか集まらない。

ではどうすればサービス向上を図れるのか。

それは今ある人材でサービス向上を図るのである。

企業に勤める弱者はただでさえ人手不足で多くの仕事を任せられているのにサービス向上のため、さらなるタスクを課せられるのだ。

そうして弱者が限界になるまでサービス向上のためタスクは際限なく増え続けることになる。

もし、このような状況であなたが何とかして新規雇用を行いたいと思ったとき、あなたなら未経験者と経験者どちらを採用したいだろうか。

間違いなく即戦力となる経験者を雇うだろう。

ただでさえ時間がないのにその業種に関しての知識が全くない人を雇い、一から丁寧に教える時間はない。

しかし、多くの企業が即戦力ばかりを雇い未経験者に教える体制が整っていないことが常態化したらそのあとはどうなるか。

将来的に即戦力となる経験者も減っていき、今まで企業が受け継いで来た伝統やサービスを失い、企業は死を迎えることになる。

さらに人の消費は有限であるという問題がある。

例えばAという商品が1社だけから販売されていたとしよう。

多くの人は商品Aが欲しければその1社から購入することになる。

しかし、商品Aを3社が販売するようになったらどうなるか。

商品Aを購入したい人たちは会社が提供する値段やサービスなどを考慮して3社にば分散することになる。

つまり使い勝手はどうあれ、同じような商品の消費者1人当たりの購入数には限度があるということだ。

それまで1社が売り上げていた利益が3社が同じような商品を販売することで利益が3社に分散されるということである。

消費者1人あたりの購入数が有限である限り、国がどんなにお金を消費者にばら撒いたとしても、消費者は欲しい分だけ買えれば満足するため、消費が一定以上増えた後は頭打ちになる。

では利益が分散するとどうなるのか。

その企業は利益が少なくなるので経費削減を図ることになる。

経費を削減すると従業員の給料は必然的に下がることになる。

企業のサービスの低下や従業員のリストラ、ブラック企業の増加、企業の倒産リスク増加などが起き、必然的に消費者の消費意欲は低下していく。

企業が倒産すればそこで働いていた従業員はほかの企業に転職する手間も発生する。

運よく今までのスキルを活かせる仕事につければ転職者の負担は少ないが、そうでない場合は一からスキルを身に付けなければならない。

このように企業が増え続けることはかなりの問題を抱えている。

 

強者は次々と湧き出る革新的アイディアを具現化するため、弱者を自分の思い通りに使う。 人の発明というのは無限にあるように思えるが、実は発明も有限である。

例えば短距離走で人間はどこまで早く走れるのかという問題がある。

明らかに100mを1秒で走りきる人間はいない。

これは人間である以上、どんなことにも限界があり、人間の発想力にも見えない限界が存在する。

人間の発想力に限界がある以上、企業がある程度発展してしまうと、それ以上の発明が生まれにくい状態になる。

例えば今この世にテレビが存在せず、初めてテレビが登場したとしよう。 そのテレビが最初のうちは白黒テレビだったものが、カラーになり、大画面になり、高画質に進化していった。

こうして数々の発明により進化し、テレビにおける発明が出尽くして飽和状態になってしまうと、やがてそれ以上テレビは進化しなくなる。

テレビが進化しなくなることはテレビを作る企業にとって人からの注目や仕事がなくなることを意味する。

これはテレビに限らずすべての商品やサービスを作る企業に言える。

しかし、商品やサービスを進化させるという仕事がなくなったからと言って、強者は弱者に仕事を無くすということはしない。

むしろ、強者は今まで進化させ作り上げた商品やサービスをどうにかしてさらに進化させ、再び注目を浴びようと弱者に無理強いするのである。

その進化が多くの人が望んでいるのかどうかも関係なしに。

こうしてどの企業も飽和状態になり、今まで目指していた目的や仕事をなくすと、どうにかして仕事を作ろうと暴走を始めるようになる。

人間は仕事をして人の役に立たなければ生きていけないという社会が生んだ信念があるからだ。

このように弱者は強者に振りまわれ、自分たちが苦しめられていることすらも気づかず、むしろ自分たちは社会に役立つことをしているんだと考えるようになる。 働くことは社会にとって本当に良いことなんだろうか。

ただ、時間を失いストレスを増やしているだけではないだろうか。

人間にとって幸せを感じるのは時間や生活に余裕があってこそだと僕は思う。

もちろん人によってはせかせかと忙しなく働くことが好きだという人もいるだろうが、僕はそういう生活は好きではない。

しかし、働くことが好きではないからと言っても、お金がなければ働かざるを得ない。 今の社会は本当に長い時間働かなければ生きにくい社会になっているからだ。

1日8時間勤務というのはどうも僕の体質に合わず正直言ってかなりきつい。

会社によってはさらに何時間も残業させられるところもある。

だから僕は6時間で終わる仕事を選んでいるのだが、6時間でも長いと感じる。

それ以上減らそうと思うと、今度はどんなに節約したとしても食べていくことが困難になる。

さらにこういう人間はダメ人間というレッテルもおまけについてくる。

本当に要らないおまけである。

僕は時間と余裕さえあればそれ以上を望んでいないのだが、どうも社会はそうさせてはくれない。

これでも昔から比べたら働く時間は短くなっているのだが、元々の労働時間が長すぎるため、短くなっている気がしない。

しかも長い時間はたらいたとしても貰えるお金は雀の涙ほどである。

スキルを磨いたとしても給料はさほど変わらないからスキルを磨きたいとも思わない。

こうして強者は今の便利な生活を作るために、多くの弱者の時間を奪ってきた。

労働力として人間を選んでいる以上、サービスや便利さを追求すればするほど、人間の労働時間が増えることになる。

労働時間が増えればその分だけ対価としてお金は増えるが、時間は減る一方である。

働くだけ働いて、給料は安く、つかの間の休日は疲れを取るために消費され、お金を使う時間もなく、使う余裕もない。

働いても働いても多くの弱者は時間やお金に余裕が出ないので、多くの人が努力して作った商品やサービスを利用できない。

人は働くことで多くの商品やサービスを提供しているが、一体何のために、だれに向けた商品やサービスなのだろうか。

この商品やサービスを思う存分利用できるのは強者だけなのである。

この社会の仕組みを考えているのは強者なのだから当たり前である。

そして、強者は弱者が頑張るための動機付けとして、生涯努力してもたどり着けもしない、華やかで豪華な生活という餌を見せつけるのである。

それでも多くの人が今の生活が便利になっているというが、本当に今の生活が便利になっていると言えるのだろうか。

今の便利な生活を手に入れるために、多くの時間を犠牲にしていないだろうか。

今の生活が便利だというのならもっと時間に余裕が出てもいいはずではないだろうか。

結局のところ人は便利さを追求するがあまり、労働時間を減らすことができていない。

今ある便利さとは人間の労力の上になりたっている見せかけだけの偽りの便利さであり、この社会は便利なようで実は便利になっていないのである。

ある人はタイヤに、ある人はエンジンに、ある人は屋根となり、張りぼての車を人力で必死に動かして走っていることを我々は便利だと言っているのだ。

つまり、便利だといわれるモノやサービスは我々人間のことなのであり、人間が便利なのだ。

さらに、世の中には便利だとされる商品やサービスが溢れかえっているが、そういう商品やサービスもまた実は便利なようで便利ではない。

なぜなら、世の中に出回っている多くの便利だと言われる商品やサービスは強者が儲かることを重点に置いており、便利さに重点を置いている訳ではないからだ。

例えば長持ちする電池と長持ちしない電池が同じ値段で販売されていたとしよう。

消費者はできるだけ安く良い物を購入したいと考えるので、同じ値段で販売されていたら、長持ちする電池の方を選んで購入するだろう。

しかし、電池が長持ちすることは消費者が次に電池を買うまでの期間がそれだけ長くなり、電池の消費が減ることを意味する。

つまり、長持ちする電池は消費者にとっては便利で良いことなのだが、それを販売する企業にはあまりメリットはないのだ。

もちろん、出来るだけ他よりも良い商品を販売することは企業のイメージアップに繋がり、消費が増える効果は期待できるのだが、やり過ぎると企業は自分の首を絞めることになる。

そのため、強者は本当に便利なものは開発しようとしない。

強者はできるだけ企業のイメージアップを図りつつ便利なようで便利でないものを開発するようになるのである。

さらに、電池に使われているレアメタルは採掘するために貧困国の子供さえも利用しているという。

それは電池を作る過程で起こる不便さを他国の貧困に苦しむ弱者に押し付けているだけなのである。

このようなことはすべて商品やサービスを生産、提供しているのがAIやロボット、機械ではなく人であることに原因がある。

では商品やサービスを提供するのがAIやロボット、機械、つまりすべての労働力がAIやロボット、機械に置き換わったらどうなるだろうか。

強者の奴隷はAIやロボット、機械になるため、人間同士で強者や弱者という関係がなくなり、全ての人が平等となる。

これまで強者の奴隷となっていた弱者は労働という檻から解放され自由を手に入れることができる。

すべての人が平等になれば、お金や権力といものも存在しなくなる。

お金や権力が存在しなければ、すべての人が色々な商品やサービスをすべて無料で利用することができる。

学びたい人は学校にいくら通っても無料だし、遊びたい人はどんな高級リゾートで満喫しようと無料なのだ。

ただし、無料だからと言って数に限りがあるものは公平に分配される必要がある。

しかし、そんな細かいことを今決めてもしょうがないのでそういう決め事はここでは割愛する。

機械やロボットは電力を供給できていれば24時間休まず、無機質、無感情に淡々と仕事をこなす。

人間と違いAIやロボット、機械は疲れという苦痛な感情が無い。

そもそも人は労働というものに適していない。

人は毎日何時間も睡眠をとる必要があるし、仕事への集中力も90分ぐらいしか持たない。

集中力が持たないので長い労働時間だとどうしてもダラダラしてしまうし、そこはもう人間だからしょうがない。

さらに仕事をし続けていればストレスもたまり、年間120日以上の休暇が必要になり、病気やケガなどで働けなくなれば更なる休暇が必要になる。

このようにAIやロボット、機械に比べ労働者が人間だとあまりに非効率なのだ。

また、人間にはAIやロボット、機械と違って感情があるため、裁判官のような情に流されて正しい判断を欠いてしまい支障をきたす仕事は不向きである。

それ以外にも事務的な仕事が多い公務員の仕事もAIやロボットに任せたほうが遥かに効率的でその分、無駄な税金を使わなくて済む。

障害者や就職先がない人、働きたくない人、働くのが苦手な人などを別に公務員にさせるなどして無理に働かせる必要はないのだ。

いかにAIやロボット、機械が労働に適しているかがわかるだろう。

このように人間の仕事がロボットや機械に置き換わり、人間が労働という不便さから解放されてようやく便利な生活を獲得したといえるのではないだろうか。

でも、そんな世界が来るなんてまだまだ先の話だろと多くの人は思うかもしれない。

しかし、無理だ無理だと言って諦めていては夢の世界はただの夢で終わるだけなのだ。

重要なのは多くの人が労働から解放される社会を望み、行動することである。

今すでに一部の人間は労働者を救おうと、人の労働力に代わるAIやロボット、機械の開発に勤しんでいる。

できるだけ多くの人がそういう人たちに力を貸し、温かい目で見守ってほしいと僕は思う。

AIやロボット、機械は仕事を奪っているのではなく、むしろ辛く苦しんでいる労働者を救っているのだから。

今までの仕事が機械やロボットに置き換わっていく様を見ると、いかにも仕事が奪われているように思えるかもしれない。

だけど、仕事や時間を奪っているのはロボットや機械なのではなく強者なのだと、どうか認識を変えてほしい。

なぜなら、この社会を考えているのはすべて強者なのだから。 強者が弱者の仕事をAIやロボットや機械に置き換えている分、弱者にその給料分を還元する仕組みを作ればいいだけの話なのだ。

便利な生活は人を不幸にすると考える人もいるだろうが、そもそも今の社会が見せかけだの不便な社会であるのに、便利な社会が人を不幸にするかどうか分かるはずもない。

便利な社会、つまり労働のない社会は人に不幸をもたらすのだろうか。 僕は少なくともそうは思わない。

便利な生活というのは自分の苦手なことややりたくないことに費やさられる苦痛な時間を無くし、自分が得意としていることややりたいことに時間を充てる役割を果たす。

別に便利さに幸せを感じないという人が居るのであれば不便な生活を送れば良いのである。

今我々が便利だと感じるものには誰かの不便さがあり、我々は便利さの物々交換しているのだ。

つまり、働くことは誰かの不便さを自分が代わりに受けることであり、働くという行為は不便なのである。

不便が幸せというならばたくさん働けばよく、人の不便さを買ってでもすればいいのだ。

そもそも、働くという不便さが今のストレス社会を生んでいるのだが、そこに幸せを感じるというのは僕には良く分からない。

働きたくない人や働くのが苦手な人などは働かないで自分のやりたいことをやったほうが社会は良い方向に進む。

儲かるか儲からないかなどつまらない事を考えず、本当にみんながやりたいことを心から打ち込める社会。

そこから、本当に便利になったといえる社会が始まるのだ。

労働に時間を奪われず、自分がやりたいと思うことをいつでも実行できる。

そして、どんな生活や暮らしをしようと許される自由な社会。

それこそが多くの人が望む社会であり、多くの人が幸せになるための最低条件ではないか。

今のつらい社会を乗り越えた先にすべての人が幸せを感じられる社会を。