競争する(頑張る)ことは必要か。

人はなぜ努力し頑張るのだろうか。

 

お金のため、家族のため、夢をかなえるため、本当の自分を知りたいため、達成感を味わいたいなど色々な理由で努力する。

 

自分の定めた目標が大きければ大きいほど達成された時の喜びや充実感は大きい。

 

しかし、頑張ることはそれだけ競争が激化し、巡り巡って自分の人生やほかの人の人生を不幸にさせるということも念頭に置かなければならない。

 

なぜなら、人が叶えたいものは有限だからである。

 

例えばスポーツの大会で世界1位を取りたいと思ったら、それを叶えられる人は世界でたったの1人だけである。

 

目標が大きければ大きいほどその目標を達成できる人数は少なくなっていく。

 

その目標に向かっている誰もが自分の目的を達成させるため一生懸命に努力する。

 

時には目的を達成させるためなら手段を選ばない卑怯な人間も出てくるだろう。

 

皆、お金で動いている今の社会では競争という概念から逃れられない仕組みになっているからだ。

 

人間には個体差があり、人それぞれに持っている能力や才能、運に違いがある。

 

1人が努力して上に立てば別の誰かがさらに努力して上に立つ。

 

こうして、みんなが努力して頑張れば頑張るほど、才能や運のない人間は淘汰され、最終的には才能や運のある人間だけがその世界に残る。

 

まさに今は弱肉強食の社会、ほかの生き物と何ら変わりのない、強いものだけが我が物顔で闊歩する仕組みを取り入れた社会なのである。

 

それでも人は努力することは必要だという。

 

しかし、人間は努力すればするほど、頑張れば頑張るほどより多くのエネルギーを消費する。

 

生き物にとって消費するエネルギーが大きいことは危機的状況であり、頑張ることや努力することは苦痛に感じ、出来るだけ努力や頑張ることは避けたいと考えるのである。

 

つまり人間は本来努力や頑張ることはしたくないのだ。

 

しかし、この社会が競争という仕組みを取り入れた社会であるため、生き物として努力や頑張ることをしたくなくても必然的に努力せざるを得なくなるのだ。

 

夢を叶えるためや目的を達成させるために1人が努力すれば別の誰かがさらに努力し、みんなが努力すればするほど合格ラインがどんどん上がり、一人ひとりが受ける苦痛が増えるのだ。

 

最終的にどんなに苦痛を受け努力をしても才能と運を持ち合わせた強者の一人勝ちということになる。

 

弱者はどんなに努力しても、日の目を見ずに諦めて去るしかないのだ。

 

これらはある種、敗者の戯言のように聞こえるかもしれないが、人が競争し、勝負するということはどうしても才能と運という要素を無視することはできない。

 

こうなると、良い思いをするのは才能と運を持ち合わせた強者だけであり、そのほか大半の弱者は目的を達成させるために苦痛を受け続ける、まさに修行僧のような生活を強いられるのである。

 

こうして努力するだけ努力して目的を達成できずにいると精神的にも疲弊し病気になったりする。

 

これが世の中で生きづらさを感じる要因の一つになっていると僕は考える。

 

頑張っている人や努力している人を見るとついつい応援したくなったり、自分も努力したいと考える。

 

仕舞には頑張ることは素晴らしいことだと錯覚するようになる。

 

確かに努力することは生活の質を高め、精神的な成長を得られるきっかけになったりする。

 

しかし、今の競争しなければ生きていけない社会では頑張りたくない人や努力したくない人を巻き込み、強制的に負けが分っている八百長ゲームに参加させられるのである。

 

我々が生きやすく生きるために努力し頑張ることが多くの人を苦しめる結果になっているということだ。

 

さらに、競争する社会は助け合う心を失わせる。

 

なぜなら、競争する社会は勝負することが常態化し、勝負の世界では人のことを思いやったり、人を助けることは負けであり、生きること、つまり勝つために常に自分にとって都合のいい有利な立ち位置に身を置く必要があるからだ。

 

そのため、競争社会は他人を思いやらない自己中心的な人間を作りやすい環境であるといえる。

 

こうして、競争が激化した社会では他人に思いやりのない、冷酷な人間やずる賢い人間が人の上に立って支配する社会になるのである。

 

多くの人が自分が生きるために他人を騙しあい、他人を信じられずに人間不信になるのである。

 

この助け合いの心を失わせることも生きにくい社会を感じさせる要因の一つである。

また、競争する社会は子供を育てる負担を増やし、少子化を招く要因にもなる。

なぜなら、子供をより優秀な人間に育てるためにはより多くのお金が必要になるからだ。

 

お金のない貧困国では子供をたくさん産んで自分たち家族のために働いてもらいたいと考えるため、子供をたくさん作ったほうが自分にとっても家族にとっても有利なので食費や生活費が底をついていても子供をたくさん作る。

 

しかし、先進国などの競争社会を強いられている社会では一人ひとりの子供が優秀である必要があるため、子供をたくさん作るよりは一人の子供にたくさんお金をかけて育てたほうが負担が少なく優秀な人間に育てやすいという考えになる。

 

競争社会では子育てさえも競争であり、息の詰まる社会なのだ。

 

もちろん、子育ての競争を捨てて貧困国のような考え方で子供にお金を掛けなくてもいいと考え、子供をたくさん作る親もいるだろう。

 

しかし、この考えは貧困国では通用しても、日本のような競争社会において子供にお金をかけないで育てるという行為は残念ながら育児放棄をしているのとあまり変わらないのである。

 

なぜなら、子供にかけるお金の多さが子供の学力に影響し、その後の就職先の幅や就職のしやすさに影響を与えるからだ。

 

つまりお金をかけた子供ほど将来的に苦労せずに幸せに暮らせる可能性が高くなるのだ。

 

貧乏で子供をたくさん持った家庭で生まれた子供は大家族に揉まれて、大人に成長してもいかにもたくましく生きていけそうな感じはするが、そういうたくましさは残念ながら幸せにはつながらない。

 

なぜなら、そういう環境で育った子供はストレス耐性が強くなりやすいと考えられるが、ストレス耐性が強くなることは逆を言えばどんな過酷な環境や職場でも耐えられるということになる。

 

よく、何も知らない外国人労働者が過酷な環境のブラック企業などで働かされている。

つまり、ブラック企業などにとってはそういう貧困国で育ったストレス耐性の高い人材は良いカモなのだ。

 

子供の生まれた環境が大人になっても生涯続く傾向があるため、日本に生まれるべくして外国人労働者と扱いがあまり変わらない運命をたどる。

 

今の社会では辛く、過酷な環境で育った人間はまた大人になっても過酷な環境に置かれてしまうというアリジゴクのような仕組みなのだ。

 

切ない話だが、我慢強さや頑張ったり努力することは幸せにならないのだ。

 

才能や運を持ち合わせていない限り、将来的に待っているのは幸せというより、苦悩や苦痛という回避できたかもしれない苦しみに子供は悩まされるのである。

 

つまり、貧乏で子供をたくさん作ることは少子化の進行に歯止めをかけることはできるが、子供の将来の幸せを考えない、無責任な行為ということになる。

 

人の幸せはその人の気持ち次第という考え方もあるだろうが、それはどんなに過酷な環境に置かれようとも本人の気持ち次第で解決できるものなのだろうか。

 

競争(頑張ること)が激しい国では苦痛や苦しみが増え、必然的に自殺率も増える。

 

競争社会は生活の質を良くするだけで人々の心を豊かにするわけではないのである。

 

たとえそうだとしても、競争社会は良い社会だと胸を張って言えるだろうか。

 

では単純に競争しない社会にすればいいのかというとそう簡単でもないのである。

 

なぜなら、競争するしないに関わらず才能や運のある人間と才能や運のない人間をどうすれば共存できるのかという問題があるからだ。

 

出来る人間と出来ない人間は同じ環境に置かれると中々折り合いがつかないことが多い。

 

根本的な部分で人間自体に能力差がある限り、みんなが全く同じ環境で育ち暮らしたとしても、すでに不平等さが生まれているのである。

 

人間を改造して能力差も平等にできれば問題ないのだが、今の技術力ではどうにもできない。

 

そのため、出来るだけ能力差のない環境を作る必要があるのだが、今の社会では能力を判断する基準も能力差に応じて細かく分けることも難しい。

 

もっとも簡単な解決方法はAIやロボット、機械などを駆使して人間が働くことがない社会を作ってしまえばすべての問題を解決できる。

 

本当に幸せな社会を実現するにはそれしかないのだが、今の現状で競争する社会と競争しない社会のどちらを取るのかと言ったら、やはり競争しない社会のほうがより多くの人にとって幸せがあると僕は考える。

 

競争する(頑張る)社会はどうしても精神的、肉体的苦痛が増え、より多くの人が幸せを感じにくい社会になってしまうからだ。

 

今、僕は純粋に競争する社会はもう古いと思っている。

 

競争しない社会はそれぞれの会社が協力してお互いが持っている優れた情報を出し合い難題を解決できる可能性もあり、生産性の向上につながる可能性があるからだ。

 

今の社会で重要なのは競争することよりも協力し合うこと。

 

それこそが今の社会で必要とされている能力なのではないだろうか。